白瀬の大学生活の記録

大学生活で感じたことをつらつらと。

人生初アルバイト1

大学1年の間は、一人暮らしという、親から解放された自由な環境のお陰で楽しく過ごした。また、当時の私は頭が空っぽだったとも言える。私が最も熱中したサークル活動では、周りに迷惑をかけ、それでも自分では全く気付かないほどはしゃいでいた。当時は、自分が「いずれ大人になり、社会に出ていかなければならない人間のひとりである」という自覚が皆無であった。

そんな私が大学1年で経験した、初めてのアルバイトはコンビニバイトであった。時間帯は早朝、日の出から通勤ラッシュくらいまで。週3回。

大学1年の終わり頃、ふと「もうすぐ20歳になるのにバイトもしたことがないのは恥ずかしいな」と思った。「私は自分の意志に関わらず、永遠に子供であり続ける」という感覚に囚われて生きてきた私は、20歳の誕生日という分かりやすい節目を前に、突然「何かを経験して大人にならなければならない、さもないと自分だけが子供時代に取り残されてしまう」「このままでは私は誰の役にも立たない、誰からも必要とされない人間のままだ」という強い危機感、焦燥感に襲われた。

そこで、私は求人サイトやフリーペーパーなどを漁り、「何か私にもできそうな仕事はないか」と探した。ある日、近所のコンビニの「急募!」という求人を見つけた。時間帯は早朝。私は、以下に示す4つの考えから、この求人に応募してみることにした。

1つ目、そのコンビニは深刻な人手不足のようで、「急募!」というくらいなら、こんな私でも雇ってくれるのではないか、と考えた。
2つ目、早朝という時間帯に惹かれた。私は、サークルが本当に大好きで、その活動(練習、演奏会、飲み会、合宿など)には全て参加したいと思っていた。早朝のアルバイトであれば、それらの活動とは時間帯が重ならないため、両立が容易であろうと考えた。また、早朝バイトとなれば、強制的に早寝早起きをし、バイト終了後に大学へ行くこととなるため、健康にも良さそうだし、1限にも遅刻しなくなるし、良いことづくめではないか、と考えた。
3つ目、接客業をやってみたかった。私は初対面の人と話すのが非常に苦手だったため、あえて接客業を経験することで、それを改善したいと考えた。 
4つ目、時給。早朝バイトの時給は、深夜勤よりは安いけれど、日中や夕方の勤務よりは数十円高かったため、魅力的であると感じた。

私は心臓が飛び出そうになりながら店に電話をかけた。震える手で履歴書を書いた。後日、面接を受けて採用となった。面接では、最低1年くらいは続けて欲しいと言われた。私は「1年なんて余裕だろう、なんなら卒業までやってやろう」という気持ちでいた。私は、初めて応募したアルバイトに採用となったことで、「これで私も社会の一員だ!」と浮かれていたのである。

私がアルバイトに抱いていた希望が全て打ち砕かれるのに3ヶ月もかからなかった。

大学入学後

「何になりたいか」「どんな人間になりたいか」「何を勉強したいか」、このどれも明確にできないまま、私はとある地方都市にある大学の、工学部応用化学系へ進学した。

大学2年生が終わるくらいまでは、自分が将来どうしたいのか、ということには目を向けることなく過ごした。1年生のころは毎日が楽しく、そんな問題は頭の中から完全に消えていた。2年生のころは、後程詳しく記録するが、初めてのアルバイトとサークルの運営だけで、肉体的にも精神的にもいっぱいいっぱいであった。

学業のほうは、1年生のころは一般教養科目ばかりで、それほど化学らしい授業はなく、高校で習った化学の知識はほとんど抜け落ちていった。2年になると専門の授業が始まったが、上に書いたように、学業以外のことで手一杯であり、その場しのぎの勉強でどうにか単位だけ取る、という状況であった。その結果、化学の基礎知識が欠落した状態で3年生に上がることとなり、化学が楽しくないどころか苦痛であるとう状況へと繋がっていくこととなる。

高校卒業までのこと2~将来の夢

「将来何になればいいのか分からない」と言うと、「何になりたいかではなく、どんな人間になりたいかを考えろ」と言う人がいる。

夢を一度も持てたことがなく、アドバイスを貰ってばかりの私が言うのはおかしな気もするが、私は、このアドバイスは意味がないと思っている。「何になりたい」だろうが「どんな人間になりたい」だろうが、私というひとりの人間を、違う切り口から見ているに過ぎないからだ。

「何になりたい」と「どんな人間になりたい」は本来、「こんな人間になりたいからこれになりたい」という形で繋がっているはずだ。なりたい人間像があるなら、いつか「何になりたいか」も見つかるだろうし、反対に「何になりたいか」が明確なら、その気持ちを掘り下げれば、自分の人間像を通した「それになりたい理由」が分かるだろう。私はそのどちらも分からないままでいる。だから困っているのである。

私は結局、某国立大の工学部応用化学系へ進むことにした。高校の授業では化学が好きだったのと、そこそこの都会にある大学で、かつ実家まで電車やバスで数時間程度で帰れる場所にある大学であったので、今いる大学を選んだ。

この選択も正しかったのかどうか分からない。しかし、正しくないのだとしても、それは「夢がないから選択を間違った」のではない、ということだけは断言できる。

今日はちょっと疲れているので、ここでいったん終わりにしよう。

高校卒業までのこと1

M高校に進学し、知り合いのほとんどいない環境での新しい生活が始まった。

M高校には、中学のような厳しいスクールカーストはなかった。もちろん、クラスの中心人物もいれば、いつも教室の隅でおとなしくしてる人もいるのだが、最上位と下位層の距離が近いというか、何かあったら上位層が下位層に手を差し伸べてくれるような雰囲気があった。中学では上・中位と下位はほぼ完全に断絶されていた。

たぶん、中学のスクールカーストにおける中位層にあたる人たちがいなかったのだと思う。いちおう進学校なだけあって、みんなある程度賢いので、噂話や悪口を聞いても、それは本当なのか?と考えたり、それはなんか違うんじゃない?と反論したりする人が結構いたような気がする。

まぁ単純に年齢の問題の可能性も否定はできないが…。

そんな環境のなかで、私は少ないながらも友人ができ、休み時間をともに過ごすだけでなく、学校帰りに一緒に店でご飯を食べたり、休みの日に集まって遊びに行ったりした。これが青春か、と思った。部活や課外活動はゆるゆると参加した。学業成績はそこそこだった。

そういうかんじで、中学とは違い、基本的人権を失うことなく、幸せな気持ちで高校生活を送っていた私だったが、また別のところで私を悩ませるものがやってきた。

進路選択である。

私には今も昔も将来の夢がない。

高校受験では、将来の夢が無くとも、とりあえず普通科を選んでおけばよかったが、大学受験ではそうもいかない。

東京大学北海道大学(当時)は受験の段階では学部を分けずに募集し、2年生くらい(記憶が曖昧)で成績順で学部を決めるというシステムだったけど、私にとっては結局、選択を先延ばしにしてるだけだし、成績が悪かった場合に行きたくない学部に行くことになるのが嫌だったので、それらの大学は志望しなかった。

私は小学生の頃から理系科目が好きで、尚且つ国語と歴史が苦手で嫌いだったので、理系に進むことだけはすぐに決めることができた。しかし、理系と言っても理学部、工学部、農学部、薬学部など、比較的広い範囲に対して興味があるといえばあったし、無いといえば無い、というのが正直なところだった。

また、どこの大学へ行くか、というのも重要である。親が学費の安い国公立大へしか行かせてやれないというので、その点は決まっていたのだが、それでも北海道から沖縄まであるし、偏差値もピンキリである。研究設備なんかもピンキリ。まぁこれは偏差値高いほど整っていると考えていいと思うけど。

私は田舎で育ったため、都会への憧れがある一方で、都会は怖いという気持ちも同時に抱いていた。

また、偏差値の高い大学を目指したいと思う一方で、目標に届かなかったらどうしよう、という気持ちもあった。

そして、何学部を目指したらいいのか、それが一番わからなかった。だって私は将来の夢がない。医者になりたいから医学部へ行く、医療用ロボットを作りたいから工学部へ行く、天文学に興味があるから理学部へ行く、そういう夢や目標や憧れが、私には無かった。

そのため、年に数回の進路志望調査で、私は毎回違う大学、違う学部を書いて先生に提出していた。そして面談で「なぜこの大学のこの学部なの?」と聞かれるのである。私は答えられない。もうちょっとしっかり調べなさいと言われる。はい、と答える。そんなことの繰返しだった。

中学卒業までのこと2

友達がいなく、灰色の中学生活を送り、早く卒業して新しい環境へ身を置きたいと願っていた私は、高校では同じ中学から進学する人がほとんどいない高校へ進学することを決意した。 

私が最終的に進学したM高校は、地域で一番の進学校で、中学からの同期は4人となった。これだけ聞くと私にとって天国のように思われるが、M高校は、家から車と電車と自転車を使って片道1時間かかる場所にあった。

私の地元は前の記事で述べた通りの田舎であり、車(すなわち親による送迎)なしでその高校へ通うことは不可能だった。私がM高校へ行きたいと言い出した当初は、負担が大きすぎるということで親は反対していた。

しかし、M高OBであった担任の勧めもあり、最終的に親はM高校進学を許可してくれた。私は明確な将来の夢がなかったので(今もないのだが)、地域で一番の進学校に進学することで、進路選択の幅を広げるという意味もあった。本当に広がったのかどうかはとりあえず置いておくとして。

何はともあれ、私は中学の知り合いのほとんどいない、地域で一番の進学校へ進学することができたのである。私の、薔薇色とは言わないまでも、灰色ではなく白色か薄桃くらいにはなったかな、というくらいの高校生活が始まった。

中学卒業までのこと1

考えてみたら、大学生活のはなしをする前に高校卒業までのことを記録しておくべきであることに気が付いた。

というわけでまず、中学までのこと。

私はとある田舎に生まれ育った。一口に田舎と言ってもいろいろあるだろうが、私の"田舎"は田畑が広がる小さな町で、家から最寄り駅まで車で10分、電車は一時間に1本、駅前ゆきのバスは2時間に1本。小学校は一学年がぎりぎり2クラス。中学は3クラスだった。

自分でこんなことを言うのもなんだが、私は中学までは、学年で一番学業成績がよかった。もちろん、「一番」という数字は、田舎で同級生の絶対数が少ないから取れた数字ではあるのだけど、周囲と比べて賢いという自覚はあった。ちなみに塾には行ったことがない。というか、田舎過ぎてお勉強のできる子向けの塾なんてなかった。大学へ進学して都会へ出るまで、世の中の塾というものは「お勉強のできない子供たちが親に嫌々入れられるところ」だと思っていた。ちなみに中学受験もなかった。近隣に受験する中学がなかった。

話が逸れてしまったが、そういう賢い子どもだったせいなのか、周りの人間とは見ている景色が違っていたのだと思う、中学までは友達がほとんどできなかった。今でも友達は多いほうではないが、困ったとき助け合える相手は何人もいる。中学まで、友達は「ゼロ」と言っても過言ではなかった。

とくに、中学3年間は本当に酷かった。小学校までと比べると、中学ではスクールカースト的なものが顕著に見えるようになり、カースト下位の人間は、上位の人間に相手にされなくなってくる。私は中学のスクールカースト最底辺であった。

スクールカースト上位にいるのは、根も葉もない噂話と人の悪口が大好きで、声の大きい人たち。今思えば、彼らは賢かったから、周囲を煽るような噂話や悪口を次々流すことができたのだろう。週刊誌を書いてる人たちや、水素水を売ってる人たちと同じである。それが真実かどうかより、人の心を掴むことのほうが大事なのだ。話が嘘だろうが、誰かが傷付こうが、その話をすることで自分の周りに人が寄ってくるのであれば、それを利用し、自分自身の地位を保ち続ける。それがカースト上位に居座り続ける人間だ。

次に、「カースト上位の人間に追従する人たち」によってカーストの真ん中らへんが形成される。彼らは、カースト上位の人間の話を鵜呑みにする人たちである。カースト上位の人間の言うことなら、何でも信じてしまう。吟味するということはまずない。なぜなら吟味できるだけの頭を持っていないから。週刊誌にこう書いてたからこうなんだ、テレビでこう言ってたからこうなんだ、水素水は体に良いってみんな言ってるから体にいいんだ、そういう人たちである。

こういう人たちはカースト上位の人たちからすれば実に都合がいい。頭が空っぽであるが故、ちょっと心に引っ掛かる噂を流してしまえば、すぐにそれを信じ込み、自分達に従ってくれたうえ、自分達の地位を勝手に作り上げ、守ってくれるからである。そして、このカースト上位と中位の人たちにより固められた「今話題のあれ」が、中学のような閉鎖的で逃げ場のない空間では特に、人とコミュニケーションを取るにあたっての鍵となる。

最後に、そういう噂話に疎い人がスクールカーストの下位層となる。「疎い人」というのにもいろいろいて、噂話や悪口を、ばからしい、興味がないと感じて聞き流す人もいれば、空気が読めない、すなわち、どういう噂が皆の間で広がっているのか、人々の共通の話題を感知できない人もいる。友達が少ないため情報が遮断され、噂話に疎くなり、より下位のほうへと追いやられ、誰にも相手にされなくなる、という人もいる。

私は噂話や悪口に興味がなかったし、カースト上位や中位の人たちを心の底から嫌悪していたし、数少ない世間話をする相手は空気が読めずカースト下位になってしまうタイプの人だったので、私は必然的にカースト最下層となった。クラスでも部活でも。

中学3年間で、話が通じる友達が欲しいと何度願ったかわからない。同じ中学のなかにそういう人間がいないのはわかっていたから、早く卒業したい、早く新しい環境へ行きたいと思いながら3年間を過ごした。

大学1年生のころ

大学へ進学して、私は高校までの自分とは別人になったと感じている。

別人になる基盤となったものは二つあると考えている。

一人暮らしと、サークル活動である。

この二つが組み合わさったことで、大学1年の私は、好き勝手に、のびのびと楽しく過ごしていた。もっとも、大学2年ではこの二つが私をどん底に突き落とすことになるのだが。

 

まず、一人暮らし。

それまでは何もかもが親の監視下にあった生活が、突然自由になった。

気まぐれにどこかへ出かけて遅く帰っても怒る人はいないし、限度はあれど、ある程度好きなようにお金を使うこともできるようになった。親に知られたら恥ずかしいなとか、親が知ったら心配するだろうな、と思うことも堂々とできるようになった。

親によって抑圧されていたそれまでの生活とは違う、新しい世界が広がっているように感じた。

 

次にサークル活動。

私は大学の、とある音楽系サークルに入部した。

上下関係も練習も比較的ゆるいサークルで、秋と冬に行われる演奏会に向けての活動が主。忙しい時期でも、集まっての練習は週2,3程度。他には月1回程度飲み会があったり、夏休みには合宿があったり。決して派手なサークルではないが、自分のペースに合わせてゆっくりと、演奏を楽しむことのできるサークル。私は大学生活の多くの時間をこのサークルに捧げることとなる。

 

さて、一人暮らしで自由の身となった私は、サークルの先輩に「ご飯へ行こう」と言われれば必ずついていったし、飲み会では毎回、同期と夜通しはしゃぎ回っていた。特別なイベントがなくとも、毎日笑って過ごしていた。誰にも怒られることはない、好きに暴れまわっていいという開放感。余りにも好き勝手している私に、先輩も同期も困っているということに気付かないまま、私にとって幸せな1年が過ぎて行った。